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更新日 2022年10月2日

執筆     遠藤徹 

2.近代日本の音楽学の前提 江戸時代に展開した楽論や楽律研究

 ところで冒頭に述べたように、近代以降の日本の音楽学の前提には一千年を超える前史がありました。なかでも江戸時代に熊沢蕃山(1619-1691)、中村惕斎(1629-1702)、貝原益軒(1630-1714)、新井白石(1657-1725)、荻生徂徠(1666-1728)、雨森芳洲(1668-1755)、太宰春台(1680-1747)等の多くの著名な学者によって楽論や楽律の研究が展開していたことは、日本の音楽学の成り立ちを考えるにあたって見落とすことができません。江戸時代の楽論や楽律研究も広い意味の教育と関係しており、そこには近代日本の音楽学の当初の課題に連続する面があるからです。

 江戸時代の学問は多くの場合、漢籍に立脚しています。音楽に関する学も漢籍の講読を基本に展開しました。古来日本人に広く読まれてきた漢籍の一つに『孝経』がありますが、『孝経』には「風(ふう)を移し俗を易(か)ふるには、楽より善きは莫し。」という言葉が見られます。この一節は江戸初期の儒学者の林羅山(1583-1657)が「楽は音楽なり。風は教化也、俗は常也、其ところ/\にて本より常に習ひ来ること也、正しき音楽を以て風俗のあしきを改めかゆること、是学のをしへなり」(古文孝経諺解)と述べているように、人々の風俗の悪い部分を正しい音楽で改めて変えていくのがこの教えであると解されました。そして戦国の世が治まり天下泰平が実現すると、学者らは太平の世に相応しい音楽のあり方を考えるようになり、「風を移し俗を易ふる」効用をもつ「楽(正しい音楽)」とはいかなるものかを文献や現実の音楽の観察を通じて探求するようになります。音楽の基本をなす楽律(音律)を重視した学者からは、理想の時代が実現していたとされる古代中国の聖王の時代の楽律、なかでも基準音となる黄鐘(こうしょう)のピッチが探求され、正しい楽律による古楽の復興が企図されます。その代表例が中村惕斎です。中村惕斎はその弟子の斎藤元成とともに古のピッチの再興を試み、実際に古のピッチで歌ってみて上手くいったといいます(楽律要覧)。

 

 当時行われている音楽をつぶさに観察し、その評価を書き残した学者もいます。例えば太宰春台は『経済録』という書物に「凡音楽は、妙に人心を感動する者なり。されば淫楽を聴けば、心蕩て淫佚にながれ、雅楽を聴けば、心正しくなりて中和に合ふ(そもそも音楽は妙なるもので人の心を感動させるものである。そうであるから淫らな音楽を聴くと、心がとろけて淫逸にながれてしまい、雅楽を聴くと、心が正しくなって中和(穏やかな状態)にかなう)」と、一般論として音楽には雅楽と淫楽があり、それらが人心に与える影響が異なることを述べた上で、当時の雅楽から浄瑠璃に至る日本の音楽を発祥の順に通覧し、雅楽は聖徳太子が朝廷に用いられて以来千余年を経て伝えられている珍重すべきものであること、猿楽は糸竹や笛の声律に合わず、中和の気を傷めるものであること、平家琵琶は中和の気はないがしめやかで猿楽よりは勝れていること、浄瑠璃は初めは文雅であったが当時は甚だしい淫声になってしまっていること、箏曲は雅楽の越天楽から変化したもので、淫声は少ないこと、三線(三味線)は当時の俗間のあらゆる歌曲に和し、手を繁く細やかにし、人の淫心を動かす最たるものと評しています。こうした観察をもとに太宰春台は当時の中国や朝鮮ではすでに失われてしまった古楽が伝えられている宮中の雅楽の普及を望みます。

 

 世界的な視野を持った学者もいました。雨森芳洲は「(前略)そのもてなしするに音楽といふ ものなくば、いかてかよろこび(歓)をたすくべき。たれはじむるともなく、聖王おこり(起) たまはぬむかしより、いづれの国にも、その国の音楽はあるなり。もろこし(唐山)、から (韓)、てんじく(天竺)、其外をらんだ(西洋)、るそん(呂宋)などいへる国にて、みなそのくにぐにの音楽あるを見て、自然のことわりなる事をしるべし」と、音楽が広く世界に存在することを述べた上で、「異代の楽を今に用ひ、異国の楽を此国に用ひたらましかば、医師の一方をもて百病を治せんとするにひとしく、人の心を感じて、風を移し俗を易ふるたすけとはなるまじ」と、時代の異なる音楽や異国の音楽を用いるのは、医者が一つの薬で百の病を治そうとするようなもので、『孝経』に謂う「風を移し俗を易ふる」助けにならないと述べます。そして芳洲は「此国の楽といへるは、能なるべし」「音調節奏はその旧きにしたがひ、唱歌を悉くあらため、此国の楽と定め、聖人世におこり、真の楽を作り給ふを待ちなば、教への助とはなるとも、害とはなるまじ」と、日本の音楽といえるものは能であるから、能の詞章を改良し、聖人が現れて真の正しい音楽を作るのを待つのが良いとしています。

 

 幕府に具体的な提言を行った学者もいます。荻生徂徠はその著『政談』において当時の武家式楽の能は予算がかかりすぎることから、鎌倉時代に発祥した宴曲の復興を提案しています。宴曲は鎌倉時代から室町時代にかけて武士や僧侶等の間で流行した歌謡ですが、当時は楽譜が残されているのみで、音楽は失われていました。もっとも徂徠は「これは楽の功者なる仁に仰付けられて、二、三年、四、五年もかからば成就すべき事也」と時間がかかることを述べ、「されどもこれらの事は、諸事の制度も調(そなわ)り、世界も豊かにゆりすわりたる以後の事なるべければ急ぐべき事にも非ず」と、喫緊の課題ではないことも付記しています。

 

 このように江戸時代には「風を移し俗を易ふる」効用をもつ「楽(正しい音楽)」のあり方が多くの学者によって探求され、具体的な提案や試みもなされていました。しかし、いずれもが個々人のレベルにとどまるもので、荻生徂徠の「急ぐべき事にも非ず」という言に象徴されるように、江戸時代の間にはついに幕府が本格的に取り組む課題となるには至りませんでした。そのため国家的な試みが具体化するのは明治を待つことになります。今日知るものは少なくなっていますが、このような江戸時代の楽論の展開を顧みると、明治時代の唱歌の創  

成は明治時代になってから突如生まれた理念ではないことがよく分かると思います。

 

 なお「音楽」の語は明治以降にmusicの訳語としても定着します。そのためか訳語以前の「音楽」の語は限定的用例のみであまり普及していなかったという見解が時折みられますが、そのようなことを言っている人は江戸時代の文献をほとんど見たことがないのでしょう。江戸時代の学者は上に数例を引用したとおり「音楽」の語をよく使用していますし、上記の学者の用例はいずれも特定のジャンルに限定したものではありません。(但し、江戸時代には雅俗の観念が強かったため「音楽」は雅に偏る傾向はありました。)

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